の伝言

 5月27日
 歌手・中森明菜の熱心なファンだったわけではない。彼女のCDを買ったこともあるわけじゃない。歌謡曲の歌番組で偶然、デビューから見つづけた、チャンネルを合わせるとそこに彼女がいた、という程度の観客でしかなかった。『少女A』で新人としてデビューした時、こんなに芋臭い女の子が歌手でやっていけるの?と第1印象は「芸能界は甘いわね」と印象付けられただけ。が、ほどなくして、彼女はどんどん垢抜けていき、画面に露出するとこうも変わるものかと、あらためて「視線の効用」を認識せざるを得なかった。
彼女を多く知る切っ掛けはやはり1連のスキャンダルから。近藤雅彦というジャニーズの売れっ子で元気な坊やくらいの認識しかなかったのに、明菜嬢と松田聖子というスキャンダルの醜女との陳腐な組み合わせに興味が深まった。スキャンダルは使い方でこんなに勝ち組・負け組ができるの?と思わせるあれからの二人の女性歌手の芸能人生。私は松田聖子が大嫌いだ。TVで見るのも厭わしい。画面に出たら、TVの電源はOFFにしている。最近はそのスキャンダルすらも興味を持たれず、視界に入ってこないのは慶事だ。
明菜嬢のスキャンダルも週刊誌の中身を確認する興味も持てないほど、哀しい安っぽさだ。しかし、私は彼女の歌が聴きたい。先日、中古の2枚組CDを買った。彼女の歌声はやはり、いい。美空ひばりに代表されるような天才歌姫ではない。しかし、若い彼女の歌声は不安な現代の歌姫そのもの。多くの恋の歌を歌っているアルバム。恋の絶頂期の時も、人目を忍ぶ切ない時もあったろう。少女期から女性への移ろいの中で、その想いを託していた「歌」を唄う時、歌い手の切なさは計り知れない。声量など望むべくもないほど痩せ細った彼女がどれほど歌いこなせるかは残念ながら期待できないが、それでも私は彼女の頼りなげな表情と似合いの悲しいけれど伝わる想いの明菜嬢の歌を聴きたい。泥沼の汚泥にまみれてもはや「もののあわれ」としか言いようがないが、今、そこにある自分から歩みだしてほしい、「歌手・歌姫中森明菜」として。きっと、歌える。道連れにされて谷底で蹲(うずくま)らずに、もう1度、「中森明菜」と出ておいで。